男の子と女の子
性格、性とはいかがなものだろうか?
「男らしく」とか「女らしく」とか「らしさ」というのは、医学的に解明されていることもたくさんありますが、ざっくりと大きく分けたらこんな行動は男性に多い。女性に多いというだけなのではとも思う。
それが「和をもって尊し」の日本ではコミュニティを構築するための生きる術になっていったように思える。「らしさ」が「男」性、「女」性の社会的役割を果たして今の日本がある。昔の出生率が高いのも当たり前のこと。娯楽の少ない時代「セックス」は娯楽の一つだ。 なんだかかんだでパートナーがいるのであれば出生率はあがる。
これは昭和の前半までのお話である。高度成長を遂げた後半からはがらりと生活も考え方も変わったのである。その時代の私たちの考えがそうだ。
出生率をあげるために一昔前のやり方をもう一度と考えている政治家さんたちにはカビのはえた考えだと言いたい。
少数派は煙たがられるものだ。この日本では。ん?日本だけでは無いようだ。この問題は世界中の「あるある」である 。
この「あるある」は命にかかわる悲劇を引き起こすこともある。発展途上の文化圏では日常茶飯事的に命が消えても殺人犯は裁かれない。今の日本では信じられないが20世紀はじめまでの日本でも同じであった。
認識が変わってきた今も窮屈に生活しているひともおられるであろう。
もう性別とは血液型と同じ感覚でいいのではないかとも思う「A型さんはこんなタイプ」みたいに。
筋力の少ない女性でもカバーできるロボットを作ることができる。出産にしても男女どちらが産むか選べる医学の技術も発達するだろう。ただ、倫理の問題だ。
今だに倫理は古い古い考えのもとにある。現代にそぐわない生活のなかでのルールを現代にあわせるのは難しいと思う。
倫理とは現代の文化、科学、技術、統計などあらゆるもので未来を見て「ホモ・サピエンス」の未来が明るくなるように世界の頭脳が考えてくれたらいい。そう考えると生殖も死も自由に操るようになれば「ホモ・ゼウス」にヒトは進化するのだろうか
男の子は自転車を一年たたずにして廃車にし、買ったばかりの自転車をさっそくパンクしてきてくれた。
女の子は同じ自転車をもう4年乗っている。
タイヤの交換を1回しただけ。
性別を「個性」にして少しは「もっと丁寧に扱え」と叱るが彼らの成長をあたたかく見守る。私に出きるのはこんなことくらいだ。
兵どもが夢のあと
ようやく秋らしくなってきました。
もう、10年近くほったらかしの農地があります。昔おばあさんがひとり、この土地でお花や野菜を作っていました。
おばあさんの姿が見えなくなって、土地は荒れ始めた。弱肉強食なのは植物の世界も同じ。その中で逞しく生き残った花達が主人を弔うように毎年茂みの中から色鮮やかに姿を表す。
本来なら上品な華道の教材になる植物なのにそれは逞しく領土を広げている。
蔦に絡まれながらも柿が毎年実をつける
蔦のマンションにはカタツムリがたくさん住んでいた!
今年の梅雨時期に初めてたくさんのカタツムリをみました。カタツムリなんてどこに消えたのか?絶滅したか?と考えていただけに、安住の地をみつけていたのかと、感心しました。
栄枯盛衰。近隣に住宅地ができたから、あと数年もすればこの土地もまた整備されるのかもしれない。
見た目は無惨な荒れ放題の土地。しかしそこは自然あふれる生き物の高級住宅地です。
感謝日記
朝に3つ、寝る前に3つ、今日出来事に感謝出きるものを書き出してみよう
もしくは嫌な思いも全て「赦す」と最後に書いてみよう。
これも読んだ本からの提案だけど、今この時代にふさわしい心の「治療法」だと私は思う。
なんとなくキリスト教の有名な言葉にも似ているけど、道端の花を見て「癒された」なら、
花に「いい気分にしてくれてありがとう」
笑顔で見送ってくれた家族に「ありがとう」
「ボーッとするな‼️」と言わんばかりに肩をぶつけて過ぎ去った人を
「自分が邪魔なところに立っていたんだと気づかせてくれてありがとう」
なんにもない1日だったら
「災いなく1日を過ごせてありがとう」
感謝すると心に大きなゆとりが生まれてくる。自然と穏やかな顔になり、ゆったりとした振るまいにもなってくる。
そしてからだの中から底知れぬパワーがみなぎってくる。
パワーが満タンにチャージされたとき、あなたは無敵だ‼️
コロナで心の病気が増えている。
皆で顔を揃えてありがとうと言い合ってみてもいい。
朝からみんなの顔を見ることができて幸せ。ありがとう
美味しい朝ごはんを作ってくれてありがとう
家族のために働いてくれてありがとう
最初は照れ臭いかもしれない。
でもその「照れ臭さ」を楽しんでみよう
くすぐったいきもちがまるで炭酸水のシュワシュワのようにあなたの心に心地よく溶け込んで行く
家族や仲間と朝から1個誉めあうといいスタートがきれる。
幸せは待っているだけはやってこない。
幸せは独占出きるものではない。
幸せは自分と素敵な仲間と共に引き寄せるものだと私は思う。
新学期が始まった。新しいことやってみよう👍
ストーリーに引きこもるな
今自己啓発の本を通勤時間に読んでいます。
そこに書かれていたフレーズをタイトルにしてみました。
この混沌としたコロナ禍の中であらゆる情報があふれ、ただやみくもに怯えるもの、
我関せずと行動するもの、すべては個人個人の「意志」が大切になっています。
前回と同じ行動をすればいいとは言えない。
ビジネスでもそうでしょう。
計画、準備、実行、結果、反省
この「反省」がなければ同じことをしてもいい結果はでません。
良くて前回と同じ結果。悪ければマイナスになる。
この第2波はまさに前回の「反省」がなければ次の政策はないのです。
そのためにはどうしたらよいのか?
「正しい」と思っていた理念や前提を疑って見よう。
新な「発見」があるでしょう。
このご時世。日本人の「醜さ」が悪目立ちしている。
自粛警察、マスク警察、帰省警察、
島国だからこそ「和をもって尊し」の考えが浸透している。
目は口ほどにものを言う
空気を読む
日本人ならではの素晴らしいパフォーマンスです。
その反面、「別行動」「自分勝手」を嫌う思考があります
良し悪しは表裏一体です。
「痛み分け」という考えもある。でもそれをさも他人に強いるのはいかがなものだろうか?
もう十分にみんな痛みを分かち合っている。
その中で自分なりにこの現状を見つめ、理解し生産性ある行動を取らなければいけない時期だと思います。
部屋に籠り、不安を煽る情報ばかり聞いて怯えるもはもうやめましょう。
それぞれに打開の光は見えてくるはずです。
自分が怯えているから周りも怯えていなければならない世界ならば、あらゆる生産活動が途絶え生活できなくなり、コロナではなくコロナ関連死が増えていくでしょう。
災害大国日本。戦後見事に経済大国になった日本。きっと光はすぐそこに差し込んでいます。顔を覆わないで見回してみましょう。
帰省
前回は夏らしく?「ひやり」としたタイトルで始めました。
8月、お盆とは人の心を養う良い環境だと思います。
家族と戦争、平和について語ることは人として心を養うのに良い教材です。
前回「死ぬ権利」について私なりの考えを書かせていただいた。
しかしこれが現実になると新なハラスメントが生まれる。「デスハラスメント」だ。
「まだ、死なないのですか」
「そろそろ安楽死考えたら?」
きっと今もにた言葉を浴びせられ傷ついている人もいるだろう。
無神経、自己中心的な、一方的な言葉に耳を傾けず、「自分は自分」で生きてほしい。
ある本で読んだのですが毎日何人かの人から「ノー❗」と、自分を否定してもらおう
という心のエクササイズがあります。
「嫌われる勇気」でしょうか。
他者に「ノー👐」
といわれても自分をしっかりと愛することが出来る人にならなければ逞しく世の中を渡ることはできない。流されず目的地まで泳ぎきる強さが大切なのです。
今情報が溢れ混乱し必要ない差別やな偏見が増えています。
今に始まったことではありませんが、「絆」や「つながり」を美徳とするわりに「お一人様生活」が気楽だという意見が増えている。
「お一人様生活」は、「自己中心的思想」に陥りやすい。よそ者排除なんてどこの部属だ?村八分なんて日本からある悪い思想はもう捨てよう。もっと相手を理解しよう。
「里帰り」は仲間が帰ってくる喜ばしい事でしょう。
外に出掛ける人は最新の注意を払って行動される。マスク越しの笑顔で十分だと思います。
うがいの大切さと正しいうがいの仕方をつい最近メディアが騒ぎ立てて紹介してくれた。 これもみんなが安全に楽しいお盆を過ごせるようにのいい「策」だったかもと思う。
「ただいま」のあとは
手洗い、うがい、楽しいひとときです。
免疫力上がると思いませんか?
「死」について
早いもので長い梅雨が明けたと思ったら今日は立秋。暦では秋になります。
駅のホームの下に白百合が咲いている。不吉な表現かもしれないが、線路を見下ろす白百合が無念の餓鬼仏を、癒しているように見えた。ことわっておくが、この駅で悲しい事故はない。無いがそう見えた。
今年は実母の大腿骨骨折から始まった。
一人で暮らす父を見舞い、母を気遣う。
コロナパニックで見舞いにもいけず、病院任せがこんなに歯がゆいというか、もどかしいというか、病院の前を通っても母に会えない日々。
医療現場が大変なのは承知である。だからこそ母がないがしろにされていないかと不安になるのだ。本人の体の弱さもあるが、骨折から半年が経っても病院生活だ。せん盲症状も出た時があった。子供も総動員してビデオ通話、ラインを母に送って、せん盲症状は改善した。今や母はラインはお手のものだ。
しかし施術師である私には屈辱的な感情を持つ。
生と死についても考える。
つい最近も体の自由を無くした女性が安楽死を遂げた。私は彼女と同じ病の患者さんを診させていただいた経験を持つ。彼女の辛さはよくわかる。協力した医師は逮捕されたが
医療が発展し、助かる命が増えたからこそ「死ぬ権利」を法的に整備するべきだ。
働けなくなり、収入は減ったのに高額医療費を払い続けてベッドの上で生活している…。それは人として「活きている」のだろうか「生かされている」のだろうか
こんなんでも私が生きていたら年金が入るからねぇ。(家族は私の年金をあてにしているんだよ)
もう一昔前に患者さんの口から聞いた言葉だ。強い怒りを覚えたのでしっかりと記憶している。
QOL(クオリティー オブ ライフ)を向上するためにもう30年も前から運動指導者としてローリング療法師として働いてきた。
PPK(ピンピンコロリ)が私たちの最終目標だ。今のあなたの生活はPPKに向かってますか?寝たきり生活が待っていませんか?そんな事考えたことはない?
コロナパニックで身近に「死」を感じたことでしょう。もうすぐお盆です。ソーシャルディスタンスを保ちながらどのように「死にたい」か家族と 話してみるのもいいと思う。
死は必ずくるもの。みんながしっかりしているときに「死」への、価値観を共有していればいざその時におどおどしない。
ただ、ホントに死に直面すると、考え方が変わることもあるので、ニュースを話題に普段から話し合うのもお勧めです