「死」について
早いもので長い梅雨が明けたと思ったら今日は立秋。暦では秋になります。
駅のホームの下に白百合が咲いている。不吉な表現かもしれないが、線路を見下ろす白百合が無念の餓鬼仏を、癒しているように見えた。ことわっておくが、この駅で悲しい事故はない。無いがそう見えた。
今年は実母の大腿骨骨折から始まった。
一人で暮らす父を見舞い、母を気遣う。
コロナパニックで見舞いにもいけず、病院任せがこんなに歯がゆいというか、もどかしいというか、病院の前を通っても母に会えない日々。
医療現場が大変なのは承知である。だからこそ母がないがしろにされていないかと不安になるのだ。本人の体の弱さもあるが、骨折から半年が経っても病院生活だ。せん盲症状も出た時があった。子供も総動員してビデオ通話、ラインを母に送って、せん盲症状は改善した。今や母はラインはお手のものだ。
しかし施術師である私には屈辱的な感情を持つ。
生と死についても考える。
つい最近も体の自由を無くした女性が安楽死を遂げた。私は彼女と同じ病の患者さんを診させていただいた経験を持つ。彼女の辛さはよくわかる。協力した医師は逮捕されたが
医療が発展し、助かる命が増えたからこそ「死ぬ権利」を法的に整備するべきだ。
働けなくなり、収入は減ったのに高額医療費を払い続けてベッドの上で生活している…。それは人として「活きている」のだろうか「生かされている」のだろうか
こんなんでも私が生きていたら年金が入るからねぇ。(家族は私の年金をあてにしているんだよ)
もう一昔前に患者さんの口から聞いた言葉だ。強い怒りを覚えたのでしっかりと記憶している。
QOL(クオリティー オブ ライフ)を向上するためにもう30年も前から運動指導者としてローリング療法師として働いてきた。
PPK(ピンピンコロリ)が私たちの最終目標だ。今のあなたの生活はPPKに向かってますか?寝たきり生活が待っていませんか?そんな事考えたことはない?
コロナパニックで身近に「死」を感じたことでしょう。もうすぐお盆です。ソーシャルディスタンスを保ちながらどのように「死にたい」か家族と 話してみるのもいいと思う。
死は必ずくるもの。みんながしっかりしているときに「死」への、価値観を共有していればいざその時におどおどしない。
ただ、ホントに死に直面すると、考え方が変わることもあるので、ニュースを話題に普段から話し合うのもお勧めです